152 麺つゆ
すわ!いつもの麺つゆがない!
昼飯は大抵麺だということは度々書いていることである。また、調理も手軽に済ませたいとなるとそこは麺つゆだろう。という訳で我が家には麺つゆのでっかいボトルが常時鎮座している。
それだけではなく、ちょっとした煮物にも使うことがあるから消費量は激しい方ではないかと思う。ただ、いつも同じ味にはせず少し混ぜ物はしますよそりゃ。
ところがだ。いつも麺つゆを買っていたスーパーからそれが消えた。えらいこっちゃ。
もう生きていけないw昼、絶食せにゃw
というくらい麺つゆは重要。
当然探したさ。
大した苦労なくみつかった。実は同じスーパーが市内ににあって(市外の方が近いのだ)市内の方にそれはあった。
そこで少し考える。
いつも使っているのは昆布だしのつゆ。これを機にかつおだしに切り替えてみようか。(ちなみにでっかいボトルがすべていつものスーパーから消えていた)
なんとなく使っていたいつもの味。こんな風に変えてみるのも悪くない。ついでに白だしも補充の時期に来ていたがこちらは薄口しょうゆに切り替えた。白だしを使うくらいの料理なら自分で出汁をとってみるのも悪くはない。
とかなんとかいいながらここんとこ、ナポリタンだの味噌ラーメンだので件の麺つゆが活躍していないw
151 峠の釜めし
目がないんす。
信州に行った折朝飯食ってから全速で向かったから昼飯のことが頭になかった。開場10分前に到着し開演は1時間後。その時腹がぐうと鳴った。土地勘がなかったから持っていたスニッカーズを頬張り開演に備えた。
すべて聴き終わり余韻に浸っているとまたもや腹の虫が騒ぎ出す。しかも旅先、なんかうまいもん食いたい。
ここは予定通り釜めしだ。
すかさず高速に乗り道を戻る。
「はぁ、信州に来たのに5時間強しかいなかったな」
実に久しぶり。会いたかったよ。
めでたく釜めしとの再会を果たすとおもむろに食い始める。
「ん?なんか旨くなってね?」
それは空腹という調味料のなせる業だったのかもしれない。変わらぬ具材に安心しながら完食。いやいやまだ漬物があるんだった。
それは遠い日、新潟に向かう電車の中、家族で食べた釜めし。そこにルーツがある。ビニルパックの急須に入ったお茶、冷凍みかん、そして釜めし。その頃俺はと言えば漬物嫌いで家ではまず食べなかったのが釜めしに付いてくる漬物だけは別だった。特にわさび漬けと小茄子の漬物。後々まで大事に取っておいて箸でつまむ時には極上の幸せを感じたものだった。
そんなことを思い出しながら最後の仕上げをする。これも何も変わっていない。
すっかり満腹になって道路情報を見ると都心に向かう道は20キロの渋滞。ふと妹の家に寄せてもらおうかと頭を過った。いやいや、急に行っても困るだろう。明日は休み、のんびり帰ろう。
幸い、俺がその道を通る頃にはほぼ渋滞も解消されていた。
あれからもう1週間か・・・。
話はガラッと変わって、今朝は手違いから野菜の総菜を2品作らねばならなくなった。昨日の磯香和えがまだボウルにあるというのに今作らねば野菜をダメにしてしまう。ほうれん草は胡麻和えに、かぼちゃはレーズン入りのかぼちゃサラダに。
レーズンを湯に戻す段になってボウルが足らないことが分かった。そこで登場は釜めしの釜である。こうしてかぼちゃサラダができあがった。めでたしめでたし。
150 泥のように眠る
zzz...
午前中は畑仕事、午後はレギュラーの仕事とWワーク生活である。移動の時間があるから恐らく普通の人よりは働いている時間は短いと思う。だが、今までが今までだけに疲労感が半端ない。そしてかつて正規職員だった頃のことを思い出す。
毎日働いて疲れて他に何かすることもできず、ただ1日をやり切ったというある程度の満足感をもって眠りに就く。その頃は恐らく寝床に入って10秒もしないうちに寝息をたてていたと思う。
泥のように眠るという表現が気に入っていてよく使うのだが、なんで泥?考えたことがなかった。なんでもこれは「泥(でい)」という虫らしく(妖怪?)陽の当たるところでは力が抜けてまるで動かなくなるのだそうである。その様をいったのが事の始まりのようである。「泥酔」も恐らくそこからきている。
そんな泥のような眠りが最近の眠りなのだ。
お天道さんが沈んだ後は考え事をしない。という考えに反していた時期からすると理想的だと思う。
かつての仕事も今の仕事も終わりというものが見えにくい。それでも終わりに向かってただ進むだけ。懸命になっている時間はもう終わりの意識さえなくてそれこそがむしゃら。人間、やっぱ疲れなくちゃダメだよ。
そして真新しい朝を迎える。今日という日はどんな日なんだろう。ワクワクする。